ありがとうのタイミングを逃しがちな場所
「山田太郎くんと……花子ちゃーん?」
小児科の先生に呼ばれて、私(34)は手を挙げた。
「あっ……、花子ちゃんです……/// 息子と、わたし///」
「あっ……w」
「あっ……///」
そっかお母さんでしたかと言って先生は大笑いしてくれた。
小児科の先生ってさ、本当に凄いの。
家族まるまる抱え込んで、みんな診てくれる。んでそこ小児科の先生は特に優しくて、吸入器とかも貸してくれて。いついつまでに早く返してね、さえも言わなくって。療養期間長引いてるから、お母さんゆっくり休んでねとか労ってくれたりする。
優しい。もうわたし先生の前では花子ちゃんになろうと思う。
だけど病院ってさ、しんどくって切実なときにしか行かないから、つい感謝を伝えるのを忘れがちになってしまうのね。病院っていつもそう。また来るときは、それはしんどいときだから。
マア先生、先日はありがとうございましたオホホホホ、そうそうそれで今回の発熱なんですけどもね、なんて話の仕方は、しない。
もちろん医療側もね、来ないということは元気になったんだな、と思ってくれているんだとは思うけど。
元気になった姿を見せる機会ないの、なんか寂しくない?
こんだけ元気になったよー! って、見せびらかしたくない? お陰様で大復活を遂げましたって言いたくない? ない? ないか。でも私はちょっとあるのね。
だから、先日はちゃんと先生に「先月は家族ともどもありがとうございました」って言おう! と心に決めて小児科を受診したんだけど。
なんだろうねこのポンコツは(自分)
「他になにかありますか?」って聞いてくれてんのに、(ほかに…他に子どものことで心配ごとあったっけな…)で頭がいっぱいになって、今それ言わんでもええやろみたいな報告をして診察室を出てきてしまった。
どんくさーーーーーーーー。どんくさどんくさどんくさ。
ちなみに娘(4)は私が、「ちんたらちんたらしてたらあかんで!」って言うのを「ちんたらかんたらしてたらだめなんだよ?」と真似する。
ちんたらかんたら。
なんたらかんたら。
どやさどやさ。
もちろん先生もさ、「前回は大変でしたね、治ってよかったですね。あれからすぐ治りました? あー良かった良かったほなこれ羊羹。あげるさかいしまっとき」みたいな世間話はしないわけ。
さんざん一緒に心配して、色々手を尽くしてくれて、治ってよかったーと思ってくれているに違いないのに、そんな無駄話は一切せず、今回は今回で今回の主訴にフォーカスしてくれるのよ。
ありがたいのよねえ本当に。
だからね? だからこそよ。
そこに、スマートに! 「前回はありがとうございました」を挟むのが! 患者としての誠意やないんかい! スマートな人間のやることやろ! なんで俺は! それが! 言えんのや!
と、ひとしきり打ちひしがれたわけ。
しかし俺は負けない。言いたいことがあったら次の日になっても改めてその話を切り出すような人間なのだわたしは。小学生の頃から。
この気持ちを伝えずにいてなんになる?
黙っていたら感謝も見えない。なかったのと同じ。そんなんもったいない。もったいないおばけが出る。
あのすいません、と私は受付に声をかけた。受付のこの女性は、若いけど仕事が出来るということを私は知っている。
「あの、すいませんさっき先生に伝え忘れたんですけど、」
女性が、なんだろうと真剣な目で頷く。
「あの、その、先月は、家族揃って、ありがとうございました、って……先生に、お伝えください、あの、その」
女性が笑顔になったのが、マスク越しにも分かる。こころなしか、そっかそっか良かったね、みたいなことを言ってそうにも見える。たぶん幻覚。
ドモドモソレデハと挙動不審なまま私は、狭い通路にデカいベビーカーをえっこらえっこら押してその場をあとにした。
ふう良かった。言ってよかった。
言わなかったら凹んでたところだった。
清々しくはないけれど、うんちを出してスッキリしたくらいの心地よさがじんわり染みる。
次に小児科へ行くとき。
そのときはまた子どもの病気で心に余裕が無いんだろう。花子さんになりきれず花子ちゃんになってしまうかも知れない。
だからせめて、少しでも余裕のあるときにすかさず感謝を伝えられるよう、すかさず抜刀できるよう、ありがとうの刀を常に携帯しておきたいと思う。
日本刀くらいの、ちょっと重めのやつ。
シャキン。